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ありえる可能性の方が高い

人間の体内にある細胞ひとつひとつが、自分を人間だと思っていたら、その世界は、一人の人間の体内にありえないくらい—人間にとっての宇宙よりも—限りなくある。

つまり、今の自分の人生が、あらゆる機会分岐のパラレルワールドのひとつだったとしても、ぜんぜん不思議じゃない。

すると、今、想像できないくらい成功している自分がいて、ただ、とてつもなく忙しい状態が何年も続いて病んでいて、

「こんな人生よりも、一般的に言うところの、年相応に人間として満たされている人生の方がよっぽどいい」

とうんざりするほど思っていて、

「ありえないが、パラレルワールドがあるなら、別の自分にそう言ってやりたい」

と思ったとしても、
その“ありえない”よりも、実際はありえる可能性の方が高い。

という風に勇気づけたり、神の視点(?)から自分を捉えやすくするような、共感を伴う根拠のようなものを持ったメッセージを、わかりやすい映像やマンガみたいなもので描いてみたい。

協力して馬に乗る

人類の歴史がアフリカから始まったというイッパン的な見方を横に置いておいた、非現実の話。

もし今の人間が、元を正せば(例えば)100くらいの器の複製だったとすると、はじめの「器の元」しかいない状態と、ずっと後になって「器の複製」がたくさんいる(今の)状態とで、何かを実行しようとした時にどうするべきかは異なることになる。

人間が少なくて元しかいない場合は、元はその目的を果たすため、ふんだんに資源を使うことができる。
例えば、馬に乗りたいと思えば、元は簡単に乗ることができる。
けれど複製が馬よりも多くなった場合、1人が1頭の馬を手に入れることはできない。
つまり、複製が限りなくいる場合に馬に乗らなければいけないのであれば、自分がどの複製たちと同じ器なのかを知って、同じ器の複製たちと協力して馬に乗る必要がある。
どの複製と同じ器なのかは、簡単にわかる場合があるようにも思えるし、目的に応じて変化するようにも思える。

それから、強い器の元は、その分複製も多くなる。なので、複製が少ない者よりもたくさんの力を借りられる可能性が高い。個の力が数に変換されることになる。
しかし、数の分だけそれぞれの決定があるわけだから、一定の数が一定の方向に向かえなければ機能しない。
これは、言い方を変えると、それを実行するかどうかたくさん精査されることになったわけで、自分たちにとってよりよいことを選ぶ可能性が高くなったのではないかと思う。
一方で、人間のキャパを越えた精査が進歩の足を遅くしているようにも思える。かといって犠牲が必要だとも思わないけれど。

身内と他人との境い目って?

何か事件などが起こったとき、それが「身近な人」に起きたことか、それとも「見ず知らずの人」に起こった事かによって反応はずいぶん違ったものになる。
被害者をかわいそうと捉える人はそれを身近に感じられるからで、そのような事件があったのかと情報としてだけ捉える人は、それを自分とは縁遠い出来事、関係のないことと感じている。

この身近な人と見ず知らずの人という2種類の人は、表と裏といった関係ではなくて距離をもっている。
例えば、国外で起きた日本人が絡む事件であれば、同じ日本人として外国人からひとつ内側に入ったカテゴリーになるため、身近さが変化する。国内の事件であれば、組織、出身地、親族、兄弟などでカテゴリー化を進める事ができる。

この、どこまでを身近に感じられるか、という境界線にとても興味がある。
人によっては、人間という領域を越えてしまう場合もあると思う。人、類、生命、物質、概念、次元など、これらを内側と捉える人たちはわりとたくさんいるのではないだろうか(ピンポイントの偏愛もあるだろうけれど)。

自分の存在をどこまで身の内として感じられるのか。

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